川島哲のキャストパーシャルの真実

第11回 キャストパーシャルの真実

模型事件 パート1 Denture Desgin を学ぶには

 

東京ドラリアムに入社したのが、24歳 日本歯研工業に入社したのが25歳

東邦歯科技工学校 夜間部に入学したのが25歳です。

大塚昌助先生の経営する日本歯研工業を辞めることになったのは、例の課長の起こした私的金属床持ち込み事件で端に発したことから、特別の配慮での設計室に行けることになったことで、社内の先輩方の冷たい空気を感じたからだと思います。

同時に模型事件が起きました。

それは、日本歯研が経営しております、隣接の東京歯科技工学校(以後 東歯技と呼ぶ)とのかかわりで生じました。

基本設計を学びたかった私は、様々な臨床ケースの石膏模型が隣の学校にあると承知しておりました。

Removable Partial DentureDesginは多くの臨床ケースになじんでいなければ対応できません。そこで、在校生で日本歯研に研磨のバイトで来ていました沖縄出身の同僚G君に(松風ヒドロギブス)の3㌔缶を渡して模型製作を依頼しました。

快諾して、担任の助手のN.W先生に各種模型製作を頼んだのです。

暫くして、黄色い石膏模型が届き始めましたが、鋳造課のI課長から大塚校長(日本歯研の社長の弟で歯科医師)が川島君を学校に連れてきてくれないかと言われたので、行くからねと話してきました。T次長も同席するからと言われた時は何かが起きたな!!と直感しました。

翌日の放課後で確か土曜日だったと思いますが、私の課長と次長の3人で行きました。

校長先生の隣に先生らしき女性が待ってまして、白衣の下がミニスカートのようにも見えました。なぜか校長先生は何してくれてるんだ“君”は、という感じを今も覚えております。

君が石膏模型を頼んだそうだが、何に使うのか?と切り出され挙句には、その硬石膏は日本歯研の石膏か?と問われ、尋問のような感じで気まずい空気が漂い始めました。

I課長は、石膏については川島君が出入りの歯科材料店支払ってましたと、事務的に返答しておりましたが、はなから会社の石膏の持ち出しと決めていた校長先生は思わぬ展開で、多少なりとも動揺してた感じは否めませんでした。

大塚校長先生は恰幅良く温厚な先生であるとの印象は変わりませんでしたが、寡黙に展開を聞いてた私は、何処で真意を切り出すか、めぐらしてました、、、