2018年03月09日
我が師匠 荻島 浩先生に贈る言葉
川島君、たまには声を聴きたいから電話したんだ!!
会って話がしたいから、こないかな。
昨年9月末にも拘らず、暑い日と記憶している。
浩先生からの申し出で、翌日15時に院長のご自宅に伺うことになった。
診療所の裏手にあるご自宅のインターホンを鳴らした。
いつもの院長先生の声だが、少しトーンが低く、お入りと、、、
階段を上がり、いつものように社交ダンスが出来るフローリングを踏みしめると、タバコの匂いが少なく感じ、部屋の電気が消えて薄暗く、若干小ぶりとなり痩せている院長が出迎えてくれた。
ただし、フローリングのとても広い中央に、ストレッチャーのような生体で用いる形状?のベッドがポツンと置かれていた。
やー 川島君!! お久しぶり!!
いつもの張りのある師匠の声が、控えめなトーンに切り替わっていた。
実は、川島君ステージ4なんだ、今後は通院はするけど、手術はしない、この自宅で過ごそうと思うと、毅然とした態度できっぱりと話された。
全く以前と変わらず、心の動揺も見受けなかった。
私が院長に最初に金属床の依頼を受けたのは26歳であった。
それから43年間にわたって仕事を頂いていた。
若造の私に優しく接して頂き、駆け出しの身に余る栄誉に浴していた。
院長は部分床義歯もされるが、特に総義歯が得意で、その印象は匠の術の名人の極致と言っても過言ではなかった。
それゆえに、私は新米ながら身が引き締まる思いで製作に携わった。
ある時、珍しく川島君悪いんだけど再印象したから、もう一度作ってほしい!!
上顎のフルプレートがどうやら吸着が甘いようだ。
再印象を頂きに行くと、院長は神妙な顔で模型を差し出した。
帰り際自分が悪いのだから請求してね!!と声をかけてくれた。
今から43年前に、こんなに素直に再製作を依頼する歯科医師は全くいなかったので、院長のやさしさが心に染みわたって、この時に何故かめったに表舞台に出ない裏方の歯科技工士を続けようと決意する自分がいた。
今年に入って1月17日(水)に長女の里美先生から院長の訃報を知らされた。
枕花を届けに駆け付けたが、居間に通され院長を拝顔したが、確かに顔や首はやせ細っていたが、天を仰ぐ総義歯の名人はとても凛々しく、強い意志が感じられ、葬儀が終わった今までも、私は院長をとても身近に感じている。
私は歯科医療人の手本として、その意思を持ち続け、医療製造業の自らの人生を全うしたいと願っている。
そんな折、長女の里美先生から総義歯の金属床の依頼があった。
里美先生は現在は明海歯科大学卒(旧城西歯科大学)で、ミス城西に輝いた美人さんである。
歯科大生の時に、たまたまお姿をチラッと見るチャンスに恵まれたが、26歳であった私は、その艶やかな魅力に声も出なかった。
そのマドンナの総義歯の指示内容が全く院長の時と同じで、リリーフや床縁の位置の書き方までそっくりなのに驚いてしまった。
挙句にはポストダムの深さまで数値化しているので、まるで院長から指示受けてる錯覚を覚えるほどであった。
やはり親子なんだ、DNAはきっちりと受け継がれており、技法伝承されてることに感銘を受けてしまった。
里美先生を拝顔しながら思わづ、院長、御安心してくださいと、心の中でつぶやいてしまった。
古希を迎えた私が、こうして長女の先生含めて3人娘の女医さんと、つながってる自分がことさら嬉しかった。
荻島 浩先生 43年間のご指導、誠に有難うございました。
“創”義歯の師匠.人生の師匠に、天国で恥ずかしくなく再会できるよう、今日も頑張り続けます。