川島哲のキャストパーシャルの真実

第2回

1974年(昭和49年)鋳造床について右も左も解らない自分にとって、東京ドラリアムの鋳造床課の先輩達に質問することが多かった。大手LABOではなかったので先輩は4人しかいなかった。

現実は甘くなく、まったくこの先輩達は教えてくれることをしない、とても“親切”な人達だった。

一様に彼らは「自分で考えろ!!」という言葉を“愛”のむちのように、いきなり放り投げてくる人達だった。

何処が悪いのでしょうかと食い下がってみても「違う」としか発しなかった。

そこで、ここかな?あそこかな?と自問自答しながら鋳造床フレームの研磨を直して仕上げると、うん「今度は出来てる」などの返事が返ってきた。

私的には、回りくどいが、その返事だけでも十分答えにはなっていた。

要するに、すぐには教えたくないオーラ“ぷんぷん”は先輩方の間では共通していた(笑)。

俺たちは血のにじむような苦労をして学んだ技術を、そうやすやすと“てめえら”新米には教えるもんかという悪い意味での職人気質であった。

この先輩方は当時、大阪の昭和歯研でコネを使って教えてもらった技術であった。